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このブログを読んでいただく前に、まず先に謝罪をさせていただきたいことがあります。
ボケ症状があるので、思っていることが上手く言葉にならずニュアンスが崩れてしまいます。ですから、そのことも含めて色々と 【謝罪文】 のなかで謝罪させていただきました。申し訳ありませんが、 【謝罪文】 を読んでいただけると助かります。
そして、皆様に謝罪文を読ませるお手数をおかけして申し訳なく、ここで重ねて二重にお詫びお申し上げます。申し訳ありませんでした。

2017/07/17

一人は一人でいると孤独になるのか?
誰かが傍にいてくれれば不安ではなくなるのか? 

言いたいことが上手く言葉になっておらず変にピントがズレているので、この記事は後で文章を再度修正いたします。申し訳ありませんが、ご理解ください。

一人暮らしのお年寄りより、家族と一緒に暮らしているお年寄りのほうが、圧倒的に自殺率は高いそうです。(本当かどうか知りませんが……。)
お年寄りなら身体が弱っているから、本来なら家族と一緒に暮らしていたほうが楽そうだと言うのが、世間一般的なイメージですよね? ですが、そういった世間一般的なイメージをぶち壊す数字の結果が出ています。
まあ、ただ、これは、ある意味、当然の数字結果だな~とは思いましたけれどね……。人は、一人でいる時、深刻な悲痛や孤独感を味わうことはできないのです。一人になってしまったことで引き起こる孤独感なんて、たかが知れたものなのです。だからこそ、これは、ある意味、当然の数字の結果だな~とは思いました。(もちろん、一人になってしまったことで生じる孤独感を否定しているわけではないのですが……。)
私は、宇多田ヒカルさんのファンってわけではないのですが、彼女の『For You』 という歌の中に、『一人じゃ孤独を感じられない。』 という歌詞がありますね。事実、人は、一人では孤独を感じることができない生き物なんだと思うんです。誰かの存在によって、自分の孤独を確認する、もしくは、感じる、そういうもんなんだと思うんです。
まあ、ただ、この、『家族と一緒に暮らしているお年寄りのほうが、圧倒的に自殺率は高い。』 という例に関しては、家族運に恵まれなかった特異な方の例だとは思いますけれどね……。(一部、被害妄想的な例外もあるとは思いますが……。)

たしかに、この人とは、どれだけ努力しても関わり合うのは絶対無理だって相手はいますよね……。
私の親族は、自分の子供を平気で虐待してしまう大馬鹿者でしたが、そうですね、憎んではいませんが、一緒に共同で生きていくのは不可能ですね。それ以外にも、虐待とまではいかなくても自分勝手過ぎる人間とは距離をおかないと生活自体が運営できなくなってしまうので、絶対一緒に居るのは不可能ですよね?

ですが、それとは別に、仮に、一緒にいる人が自分勝手な人ではなかったとしても、人と人とが関わり合う時、とても大変な側面があったりします。
自分以外の人間の気持ちを理解したつもりになれてしまう人は、絶対に辿り着けるはずがない深海の深さと、その光景のことを忘れ、岸に押し寄せる波と水平線だけを見て、海を知った気になれてしまう人間と、なんら変わりがないでしょう。人間は、お互いに相手を思い遣っていても、どこか深い部分に必ず分からないところがあり、すれ違いが起きてしまう生き物です。それぐらい人間の感情の深さも深くて辿り着けないもの……。ですから、お互いに相手を分かったつもりにならず、もっと相手を知ろうとすることは、相手に対する最低限の礼儀であり、とても大事なことだと思うんです。

人間一人一人考え方が違いますから、誰かと一緒にいると意見の対立が起こることがあります。意見の違う者同士で関わり合っているわけですから、一人でいるより、多くの人と一緒に生きていくことのほうが物凄く忍耐を強いられる場合だってあります。逆に、一人でいると誰とも意見の対立が起きませんし、ある意味、自由で気楽なものです。一人って孤独なのかと言えば、意外とそうではない場合もあるんですよね。(まあ、そうではない場合もあるってだけなのですが……。)

そんな風に考えの違う者同士が沢山集まったなかで、そのなかでも和合を崩さず、それでいて同調圧力に屈さずに自分らしく生きる。この二つのバランスを両立できる人間は、とても珍しく奇異な存在で、ある種の尊敬の念のようなものを感じます。自分の考えや信念や正義を貫こうとすることで社会や誰かに批判的になってしまったり、和合を崩さまいとして誰かの言いなりになってしまったり、人は、どちらか一方の方向に偏りやすいのです。ですから、自分らしく生きつつ、それでいて和合を崩さない、この両方のバランスを適度に両立することができる人は、とても奇異な存在でとても素敵ですね。
まあ、とは言え、時には、怒ることだって大事だと思うんですよ。全て和合で処理していたら、逆に状況のバランスが崩れてしまうことがあります。どこで、バランスを取るかは難しいですね……。

人と人とが関われば、全ての方面で同じ意見に収まるなんてことは有りえません。
まあ、意見が違うからこそ良い場合だってあるんですけれどね……。完璧な意見を言える人間なんて一人もいません。どこかに必ずや何かの死角や盲点があったりします。そういった問題に関して、お互い自分とは違う意見を混ぜ合うことによって、お互いの死角や盲点を修正し、均等なバランスへと近づけようとしたりします。アルカリ性と酸性を混ぜると中性になるように、相反する性質の違う意見を混ぜ合うことは、時に、とても面白い作用を生み出すことがあります。どちらか一方を否定するであったり、どちらか一方を正しいと証明するであったり、そういったことが大切なのではなく、お互いの意見を混ぜ合うことによって、さらに進化した形を生み出すことができる場合もあるんですよね。
とは言え、出会った頃から意気投合していて、どんなに仲が良くても、お互いに理解し合えているように感じていても、長い歴史のなかで、すれ違いが生じたり何か歪のようなものが出てくることがあります。お互いに悪気がなくて相手を思い遣っていても、それは、起きてしまうことがあるんですよね。
そんな時、喧嘩をしながらも、ぶつかり合いながらも、お互いの感情から逃げずに諦めずに向き合ってきたからこそ、長い年月をかけて信頼関係が築き上がってきたな~って関係もあるんですよね。普段の日常よりも相手の怒りを直視している時のほうが、相手の本音が見えるチャンスに恵まれるので、相手の人間性が時間をかけて浮き彫りになったり、今まで気づかなかった死角や自分の至らなさに気付かされたり、今まで気づかなかった新たな事柄に気付かされたり、そうやって向き合いながら喧嘩してきたことで、余計に信頼感が深まっていったことがありました。相手が自分にとって納得できない不愉快な意見を言ったからといって、その直後簡単に友好関係を閉じていたら、今の関係はなかったな~という関係はあります。あの時、敢えて自分にとって嫌なものと向き合うという苦痛と喪失を選び続けてきたからこそ、その後の展開によって、その後の気付きによって、さらに深い信頼関係を築き上げることができたな~って関係もあるんですよね。
自分が思い込みで所持していた下らない善悪の基準を捨てたり、自分の視覚からは見えていない相手の背景・背後にあるものを知ろうとしたり、怒りであれ何であれ一見悪く見える事柄のなかに内在する自分には見えていない本当の真実を知ろうとしたり、そういった様々な努力を、お互いにしてきてからこそ、お互いに完璧ではなかったけれど、長い年月かけて少しずつ前に進んでこれたんではないかと思っているんです。

理解者は、現れるのではない、つくっていくものだ! とそう思っているんです。運とか偶然の産物のように自然に勝手に現れるのではなく、長い年月をかけながら、お互いに障害物を乗り越えていくことで、つくっていくものだ! と、そう思っているんですね……。

誰かが傍にいれば幸せになれるわけではない、自分の見たくない現実も含めて、ちゃんと相手の現実と心と向き合って日々毎回毎回積み重ねていく姿勢がなければ駄目なんだ! って、そう思っています。

そんな感じで、それでは、失礼いたします。(⌒ー⌒)ノ~~~

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